2018年2月20日火曜日

C-BTEワークショップ:「C-BTEカフェ」

数年前から「対話・問答」を中心としたC-BTEワークショップの一つC-BTE カフェ」を開催しています。原則として奇数月の第三週の木、金の二日間です。詳細の日程については本校のホームページで更新していますので確認してください。

C-BTE カフェ」という名称についてですが、カフェは今でも個々人のくつろぎの場として親しまれている場所です。青春時代、集中して読書ができる場として利用していた頃の懐かしい思い出がよみがえってきます。興味深いことに西欧での「カフェ」は遠き時代から個々人のくつろぎの場としてだけでなく、政治家、思想家、あるいは芸術家たちが共に集まっては議論したり、意見交換をしたりと実に刺激的な思考の場、知恵を得る場でもあったと言ういわれがあります。そういう意味では、「カフェ」はC-BTE パラダイムにとってもとても親和性のある名称です。

今日的問題意識の中で、かつ自分たちの置かれた文化の中で教会の使命である主の宣教大命令にどのように応えていけるか、持続可能な教会を建て上げ、そして確かな次世代リーダーを建て上げていけるか、こうした視点からC-BTEパラダイムに関心を持ち、取り組んでみようという方、大歓迎です。またすでに取り組んでいる方々が実際に当面する課題や疑問点を持ち寄って、聖書の原則をどのように展開していくことができるか、宣教戦略を描けるか、その確かさを確証するためにC-BTEパラダイムに基づいて共に「対話・問答」を行います。聖書の意図を明確にし、同時にそれぞれの文化の中で、この時代にふさわしい実践的プロジェクトを見出させるように問答を深めます。このような「対話・問答」に取り組みながら聖書の意図に基づき実践的な知恵を得ることを願って「C-BTE カフェ」と称しています。この日本の文化の中でC-BTE のパラダイムの確かさをいかに実証することができるかを共に考えることができればと思います。

C-BTEパラダイムに基づく教会建て上げに関心のある方々、またすでに取り組み始めている各教会のリーダー(牧師、信徒を問わず)たちが主役のワークショップでもあります。特にC-BTE のパラダイムは一貫した聖書神学もさることながら、手法において「対話・問答」方式を大切にしています。「対話・問答」は単なる手法に留まらず、聖書解釈 において重要な手法でもあるからです。つまり、聖書の原則を明確に、実際の場での諸問題を明確にして「対話・問答」することで、自ら聖書的に明確、かつ健全に考える能力を磨きます。結果的に教会共同体の中で堅実に考えるクリスチャンたちを建て上げることにつながります。神の家族教会が聖書の原則に基づき、聖書の意図を実践的に考え、しっかりと判断して信仰による一歩を踏み出すことができるようにすることです。

当面、仙台のリソースセンターである神学校を「C-BTEカフェ」の場としてオープンしていますが、最大の眼目は各地区ごとにC-BTEカフェ」が自然発生的にオープンできるようになることです。そのようにして実質のある「C-BTEネットワーク」が実現していけたらと思い描いています。「ぜひ、私たちのところでも」と希望される方がありましたら、本校の事務局に遠慮なく声がけしていただければと思います。 

2018年1月30日火曜日

「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-(2)

ハビタスの手法:第一段階 :「神学的識別力」を発達させる

聖書の「基本原則」を理解し、聖書的に考える力を育成するということです。この点に関してJ.I パッカーの提言、その論点を参考までに紹介します。
「今日の大きな必要の一つは大人のための体系的なキリストの教え-教義的な教え-を復活することである。名称はどうでもいいし、昔のプロテスタント系の人達が自分の子供たちを教えたような、今ある杓子定規的なドリル形式にする必要もない。どのような方法かで、キリスト教の神髄を知りたいという教会内外の人たちにそのための機会が与えられる必要がある。なぜなら、これをどうしても必要としている人たちが非常に多くいるからである。そのような人達にとって説教は助けにならないことが多い。というのも説教は、話す側にも聞く側にも信仰の基本に対する明確な確信があるとの前提に立ってのものだからである。それが無い場合、説教は自分には関係のないもの、時には不快なものとさえ感じられてしまう。未確認の憶測としか写らないからである。しかし、キリスト教の知的な初歩(基本原則)を調べ、挑戦し、試し、見極めるのに最適な場所は講壇ではなく、教理問答方式のような体系的な教えにあるのである。少なくとも教会史はそれを示唆している(Growing in Christ)

聖書の「基本原則」: 「基本原則」は基礎的な教えに関する聖書のことばで、最適なものの一つが新約聖書に出てくる「基本原則:στοιχεια」という表現です(コロサイ2:8「幼稚な教え」)。ただし、残念ながら日本語訳聖書では適切な訳語になっていません。おそらく聖書には「基本原則」があるという聖書神学の成果を読み取っていない、ないし理解がないゆえであろうと思われます。ただし、新改訳のガラテヤ人への手紙4章での訳語「幼稚な教え」について、訳者は脚注に「原理」という別訳を記しています。標準的な英語訳では明確に「基本原則」となっています。原則であれば善悪の問題ではく、考え方の原理ですので、私たちキリスト者はこの世の哲学に基づいてではなく、キリストの原則に基づいて考えるというのは必然であると思います。
信仰の初歩の原則はより深い事、つまり成熟へと進んでいく前にどうしても十分に習得する必要があるのです。この原則は新約聖書の書簡の中に明確に教えられているケリュグマ(キリストの福音)とディダケー(福音に基づく教え)、キリストの福音と福音に基づく教えです。「基本原則」は信者が大人として理性的に考える、かつ聖書的に考える能力を発展させます。これはHans Gadamarが「解釈学的に訓練された判断」と呼ばれているものであると言われています。つまり、聖書を正確に解釈し、それを生活と仕事のすべての領域で適切に適用する能力なのです。

段階1の学習内容: 以下の各冊-基本原則シリーズ-は教育的にも神学的にも非常に慎重に配慮されて作られており、信者が信仰の基本原則に基づく生活ができるように、徹底した基礎を築けるよう非常に慎重に配慮されて作られています。この非常に重要な13冊は最短18週で学ぶことができます。

聖書の基本原則:6週間の学びからなる13
シリーズⅠ:神の家族教会共同体
①主の弟子となる
  信仰の基本原則
②家族の家族に属する
    共同体生活の基本原則
③教会の使命に参加する
  共同体の目的の基本原則
④心の習慣を養う
  律された生活の基本原則

シリーズⅡ:次世代、三世代、四世代に継承する家族
①関係を楽しむ
結婚の基本原則
②信仰を継承する
家族生活の基本原則
③実りあるライフワークを展望する
  宣教の基本原則
④次世代を築く
  真の成功の基本原則

シリーズⅢ:聖書神学、解釈の方法
①確信を持ってみことばを用いる
聖書研究の基本原則
②大宣教命令を展開する
  使徒の働きに見る基本原則
③福音に固く立つ
  テサロニケ人への手紙第一、第二、に見る基本原則
④教会に対する神のビジョンを理解する
エペソ人への手紙に見る基本原則
⑤神の家で生きる
  牧会書簡に見る基本原則

ハビタスの手法:第二段階 「ハビタス」発展させる

  生涯に渡り知恵を追求するための基礎を育成することです。一生涯に渡る知恵の追求の要となる基礎、信仰に成熟する為の一つが知恵に裏打ちされた人生の方向性に発展させていくことです(参照: 箴言21-9、詩篇9010-17)。神は私たちに知恵書、すなわち箴言、伝道者の書、雅歌の中で非常に豊かな基礎を与えています。知恵書は「自分の日を数え」、熟達した人生を生きようとする時、私たちを導いてくれるものです。
私どもが提携するC-BTEパラダイム国際的なネットワークのリソースセンターであるビルド インターナショナルのリソースで学んだ七つの優先事項について紹介します。コヴィーの『7つの習慣最優先事項』が参考になっています。

七つの優先事項:
第一の優先事項:理由の認識
あなたはなぜ、存在するのかを理解する:あなたの目的

第二の優先事項: 経験の評価 
あなたはどこにいるのか判断する:あなたの物語

第三の優先事項:あなたが唯一無二であることの確認  
あなたは何者であるかを理解する:あなたの能力

第四の優先事項:アイデンティティーの定義
あなたのふさわしい居場所がどこかを決定する:あなたの役割と責任

第五の優先事項:持っているものを最大限に生かす
あなたが持っているものを活用する:あなたの教育、機会、四世代に渡る知恵、ライフワーク

第六の優先事項:優先順位の統合
あなたがどこに向かっているかを知る:あなたの人生設計

第七の優先事項:知恵の獲得
あなたが計画したように生きる:あなたの生涯学習の習慣

七つの優先システムのうち、第七の優先事項は、私たちに個人的な生涯学習のシステムをどのように設計するのかを教えてくれます。それは最新の文献等に触れ続ける方法、インターネットから鍵となる情報を得る方法、読書計画を構築する方法、そしてこれらのすべてをあなたの人生に統合する方法、つまり知恵に変える方法を含んでいます。本質的に七つの優先事項は、一生涯かけて知恵を追求するためのあなたの戦略となるものです。この課のワークシートは、第七の優先事項、生涯開発ポートフォリオの第七の優先の課に移すことができます。「共同体における生き方の管理」:人生開発プログラム

ハビタスの手法:第三段階

 共同体の中で「神学」する  信仰の基本原則を学び、知恵に基づいた魂の方向性を発展させた次に重要なのは信仰の共同体(いのちの交わり)と共に生涯に渡る知恵の追求を始めることです。私たちが求める神学は神の家族教会中心でなければならないということです。ある意味、信仰の共同体全体が神の全計画の内に成長する、日々の生活にその真理を適用していく必要があるのです。

「ハビタスの手法」は神の再創造の御業としての神の家族教会共同体の建て上げにおいて見落としてならない神の手法、聖書の手法なのです。

2017年12月6日水曜日

「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-

「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-

はじめに: 神学教育のパラダイム転換、C-BTE「教会主体の神学教育」について共に考えていますが、その後の取り組みはいかがでしょうか。とりわけ聖書の啓示の展開におけるキリストの受肉、そして十字架の死と復活、昇天の後、主は再び聖霊を通して啓示されたのが奥義としての神の家族教会共同体、これこそが神の救いのご計画のハイライト、圧巻と言っても過言ではありません。ケリュグマ、ディダケー、福音と福音に基づく教えに建て上げられる神の民、教会の存在です。
今回は教会建て上げにおける神学教育の手法の一つ「ハビタスプロセス」-知恵を得る過程-について紹介したいと思います。これはビルド・インターナショナルとランコープ・リソースの資料(「基本原則シリーズ」等々)を用いてどのように順序立て聖書の知恵を生涯にわたり追求するかの手法でもあります。つまり、「ハビタスプロセス」は地区教会が会員を教育、訓練し、その生涯に渡る聖書の知恵の追求を手助けするために順序立てられ、体系づけられた聖徒建て上げプランを提供するために創られました。

「ハビタス(ラテン語 habitus ):習慣」の主要概念: 「ハビタスとは習慣とすることや実践することで得られる完成、あるいはぶれない状態、情況を言う」。つまり、人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質ないし気質を意味します。神学的視点から言えば、神の知識と知恵を追求することで手に入れた習慣がその人の内性、気質、振る舞い、つまり聖書の言う「心構え」(ピリピ2:5)となるということです。聖書自体の証言として明確に、信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生のすべての場面で聖書的に考えることを学ばなければならない、という命令が与えられています。
しかし、ハビタスとしての神学、「日々聖書から神についてより深く学ぶこと、すなわち、いかに魂を正しく導くかという知恵を得るはずの神学(聖書、聖書原語、重要な文献の学び等を通して)、またどのような状況にある人にとっても必要な学びであるにもかかわらず、牧師などの専門職の備えのための学問的な学びに置き換えられてしまっている」と指摘されています。(参照:Developed by Edward Farley in Theologia: The Unity and Fragmentation of Theological Education
現代の西洋文明の中で私たちは魂の方向性の原則を、学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究に傾斜してしまったというわけです。結果として、今日のクリスチャン教育が個々人の生涯の発展的な学習であるにもかかわらず、各世代、分断された統一のない教育になっているのが現状ではないでしょうか。こうした核心的な問題点を自覚し、真摯に聖書に戻って再考するハビタスのプロセスは各個教会共同体での生活、いのちの交わりの中でなされる神学教育の聖書的原則をもう一度確立する方法を提供していることに注目していただきたいのです。近年では一般教育の世界ですでに「考える」教育に大きく移行していることが注目されます。

「ハビタスの手法」:すべての信者がたどる三つの段階
段階1: 聖書の「基本原則」を理解し聖書的に考える力の育成
段階2: 生涯に渡って知恵を追求するための基礎の育成
段階3: 生涯に渡って聖書に精通するための追求

各段階とも資料を順序立てて学ぶようになっていますが、聖書の主要な概念に精通するだけでなく魂の本性(傾向)を得るものとなっています。

「ハビタス」:根拠 はっきりと聖書の中には信者一人一人が神のことばを真剣に学ぶ者であり、人生の全ての場面で聖書的に考えることを学ばなければならないという命令が与えられています。しかし現代の西洋文明の中で私たちは魂の方向性の原則を学問的知識を得る目的と捉え、専門的な働きをする知的学問の追究をしてきました。ハビタスのプロセスは聖書的原則をもう一度確立する方法を提供します。つまり地区教会共同体の生活、人との関わりの中での神学教育です。

「ハビタス」:歴史 教会史を見ると聖書を真剣に学ぶ事が常に要求されてきていました。初代教会では信条(doctrinal statements: 教義声明文)とディダケー(teaching manual: 教えの手引き書)は必須知識でした。宗教改革以降はconfession: 告白(advanced creeds: 高等信条)とカテキズム(advanced didaches高等ディダケー)が順序立てられた学び方の一つでした。教会が繁栄した時、それは神の民が真剣に聖書を学び、聖書的に考えた時でした。とりわけ旧約聖書が書かれたヘブル語の知恵(hm'k.xhokmah)はハビタスの実際的な定義を的確に説明しています。ホクマー「知恵」は文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能(正しく人生の選択をする能力)の両者の開発、発展を意味しています。私たちの文化の中でも「習慣は第二の天性」という表現が用いられますが、ハビタスとは人種、職業、性別等に関係なくすべての人間が一生涯に渡って身につけなければない魂の方向性と言い得ると思います。

「ハビタス」:意味 「ハビタス」はラテン語で、英語の「習慣」という言葉にあたります。そこから学びの習慣という概念が思い浮かびます。ローマ人はハビタスを哲学的に用い「習慣とすることや実践することで得られる完成した、あるいはぶれない状態ないし状況」であると記しています。つまり人間が理性と思考の追求を通して手に入れた性質ないし気質を意味しました。神学的に言うと、神の知識と知恵を追求することで手に入れた習慣がその人の内性、気質、振る舞いとなるということです。

「ハビタス」の実際的定義:生涯知恵を追い求めるための心の方向性
旧約聖書が書かれたヘブル語の知恵(hokmah)はハビタスの実際的な定義を見事に説明してくれています。Hokumaは文字通りには「生きるうえでの技能」という意味で、精神的技能(聖書的に考える能力)と生活技能(正しく人生の選択をする能力)の双方の発展を意味します。下の二つの聖書箇所はそのことを非常に顕著に記しています。

子どもらよ。父の訓戒に聞き従い、悟りを得るように心がけよ。
私は良い教訓をあなたがたに授けるからだ。私のおしえを捨ててはならない。
私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、父は私を教えて言った。「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える。それはあなたの頭に麗しい花輪を与え、光栄の冠をあなたに授けよう。箴言4:1~9

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。
帰って来てください。【主】よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。詩篇90:1017 

 箴言をみると著者は若い人たちに、生涯に渡って知恵を、神からしか得られない知恵を追い求めるよう、しかもそれを人生の主要な目的とするよう勧めています。詩篇では、モーセは私たちに、すべての人が知恵の心を神に向け自分の日、70年か長くても80年を数える必要に気づくように言っています。心(そして命)も聖書が示す技能をいただいて生きる、まさにそうした時のみ。モーセが言っているように、神は私たちの手の業を確かなもの(永遠なもの)とされ、神の慈愛(美しさと麗しさ)は私たちの日々の生活の上にあるのです。残念ながら、ほとんどの信者はこの技能を高めようとしません。
例えば、雅歌は神の示す成熟した美しいロマンチックな愛と結婚を描いて見せてくれています。しかしほとんどの信者は雅歌をそのような本であると見なすことも、ましてやその概念を見つけることも難しく、結果的に自分たちの思春期を迎えた子供達に伝えていくこともできないでいます。(続く)

2017年11月12日日曜日

C-BTEに取り組ませて頂いて

新たなラベルを追加します。C-BTEパラダイムを理解し、そして実際に聖徒を建て上げ、神の家族教会の建て上げに取り組みつつ、主の宣教大命令に応えている方々の証言です。今回は、今は亡き故鈴木真牧師のもとでC-BTEパラダイムについて理解を深めた松原智牧師の証言です。

故鈴木真牧師は特に「3.11東日本大震災」において私どもが立ち上げた「災害復興支SBSネットワーク」の取り組みに共鳴していただき、被災地支援活動において共に労した同労者の一人です。先生が推進する「イザヤ58ネットワーク」は私どもの支援活動においても実に大きな力になっていただきました。その支援活動と共に理解を深めてくださったのが私どもの進める「C-BTEパラダイム」です。そして先生は腎臓癌を患う身となり、治療を専念しながらも被災地に足を運んでくださいました。しかし2015年9月に天に召されました。何よりも先生がC-BTEパラダイムを解しただけでなく、次世代のリーダーにしっかりと継承されたことに敬意を表したいと思います。


C-BTEに取り組ませて頂いて

20171120
福音伝道教団笹塚キリスト教会
松原 智

私が現在、牧会させて頂いております、福音伝道教団笹塚キリスト教会は、1975年、福音キリスト教会の開拓伝道としてELI(英会話学校)と協力して初台で教会活動を開始し、1977年に渋谷区笹塚1丁目のビル1階のテナントに移り、笹塚伝道所となりました(「福音キリスト教会笹塚チャペル」)。
福音キリスト教会(主管牧師:村上隆一師)は『信徒が信徒を生み、教会が教会を生み出す』と言うコンセプトのもと、『30人を越えたら、半分が開拓に出る』と言う思いを持ち、ピーク時は15チャペル(牧師は、多い時で7)を有し、普段は、それぞれのチャペルで、15-30人の礼拝を行い(信徒説教者も多数いました)、定期的に全チャペルが集まり、合同礼拝を行い、250人を超えていました。
そのような中、私は笹塚チャペルの働きを通してイエス様を信じ、高校生の時は開拓にも出させて頂き、その後、笹塚に戻り、大学生の時には礼拝説教も担当させて頂くようになりました大学卒業後、臨時教員を経て、教会スタッフになり、教会に仕えながら聖契神学校で学びました。
そして1999年、神学校を卒業と同時に、福音キリスト教会から自立させて頂き、『笹塚キリスト教会』を7名ほどのメンバーと設立させて頂きました。
現在、礼拝出席は30人前後で、お友達・中高生・関係者を合わせても50人に満たない小さな教会ですが、私たちの教会はC-BTEの学びを取り入れさせて頂き、神様による変化を体験させて頂いています。

C-BTEの学びを始めるきっかけは、故鈴木 真牧師(戸塚めぐみキリスト教会)でした。鈴木先生は私の霊的メンターの一人であり、その鈴木先生から2012年、C-BTEの学びの手ほどきをして頂き、それが基となり、現在に至っております。
特に、現在、私達が、神様によって体験させて頂いている変化について分かち合わせて頂きます。
Ⅰ、まず教会の中で、最もこの学びを通して神様に取り扱われたのは私であると思っています。鈴木先生から教えて頂いた後、自分でC-BTEのテキストを学び始め、それを通して『家族を大事にする』と言う事を神様に教えて頂き、結果、実家に移り住み、両親の介護をするようになり、両親が救いに導かれました。また、家内との関係においても、もっと愛を実践することの必要性を神様に教えて頂き、以前は全く家事をしなかった私が、今では週1回は必ず夕食を作るようになりました。それと共に、それまでは『仕事』、つまり『教会の働き』中心であった私の価値観も変えられ、家族との時間を祈りつつ確保するようになりました。
Ⅱ、教会としては20134月から取り組み始め、現在に至っています。
1)最初は、3グループで合計12人が学び始め、現在は4グループで合計12(入れ替わりはありました)が学んでいます〔①日曜午後コース~現在:第三シリーズ2冊目【4人】、②水曜午前コース~現在、第三シリーズを全て終え、Life-n【2人】、③水曜夕方コース~第一シリーズを終えて、現在、インターバル中【2名】、④金曜夜コース~現在、第三シリーズを全て終え、Life-n【4人】)。それぞれ、月2回のペースで1課ずつ進めています。*現在、新たに2人の方が学びたいと言っており、少し待って頂いています。
2)私達の教会は、設立10年目の2008年、『エズラ・プロジェクト』という名称で、会堂建築を目指し、話し合い、日曜日の礼拝前の1030分から『エズラ祈り会』を開始し、2013年、教会でC-BTEを導入し、その中で『会堂建築は教会形成の一つの実』と位置づけ、まず教会形成に力を入れ、C-BTEを学び続け、遂に今年8月、無事、会堂が完成しました。
3)学んでいる12人の方たちの中にも変化が生じています。ある家庭は、この学びをする事を通して、家庭礼拝をしっかりするようになりました。また、学んだ全員が、この学びを通して、家族、そして家族の家族である教会を大事にするように変えられています。感謝な事にクリスチャンホームの多くのお友達は信仰が明確になり、教会での奉仕もエンジョイしています。特にLife-nを学んでいる人達は、今までの仕上げであり、新たなスタートといった意識が与えられ、この後、『基本原則を教える 基本原則シリーズを指導するための基本原則』を学び、新たに第一シリーズから、新しい人を加えて学ぶ予定です。

以上の様な変化を味わいつつ、今、新たな変化を体験しようとしています。私たちの教会では、教会員の方の自宅で、集会を調布と蒲田で行っています。それぞれ笹塚からは電車・車などを用いて、1時間くらい離れた所で、それぞれのクリスチャンホームのお友達がお友達を家に誘い、そこで教会学校を始め、その子達が現在、中高生となっています。調布は月1回、ユース集会を行い、10人前後の出席があり、婦人の為のゴスペル・クワイヤーもあり、関係者は全部で30人ほどいます。また、蒲田も、年4-6回、ユース集会をこない、10名前後の出席があり、関係者が20人ほどいます。そして、それぞれ家を開放して下さっているご夫妻は、C-BTEの学びを行っておられます。
願いとしては、5年以内に調布で教会開拓を行い、出来れば、その後、蒲田でもと祈っています。これも、C-BTEの学びを通して神様から導かれている事と確信しています。

私達は、続いてC-BTEを用いさせて頂く中で、「パウロのサイクル」を実践させて頂きたいと、心から願っています。



2017年10月31日火曜日

地域に貢献する教会(4)

お金について(2)

前回、神の再創造の御業として教会は地域の繁栄のために、教会内外において貢献する共同体であること、そのために「お金」、富は貢献する資源の一つとして大切なものであることを確認しました。それだけに建て上げられるクリスチャンは自分に与えられた能力を最大限生かして額に汗する労働、かつ創造的に収入を得る働き考えるべきであることについて考えました。それだけに聖書の意図をしっかり捉える必要があります。

Ⅰテモテ6:8-10: 衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

Ⅰテモテ6:17-19: この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

これらのみことばから推論できる原則、富に関する6つの主要概念を確認できます。
 1、富める者は、物惜しみすべきでない、
 2、富める者は、自分の富を楽しむ自由を持つ、
 3、富のゆえに、人生の本質を見失う可能性がある、
 4、富を永遠のために投資することもできる、
 5、富のゆえに、悪の支配に委ねる人生を送る可能性がある、
 6、富は、福音に基づく「良いわざ」を行う一つの手段として与えられている。

教会が誕生して間もない頃、バルナバのように捧げものはとてつもなく高額になることありました(使徒4:32-35)。持てる者ではありますが、助けを必要としている主にある兄弟姉妹に対する真実な愛に基づくものでした。つまり、献げ物は高額になることも常に想定すべきであること、必要に応じてはその年の収入をはるかに超える捧げものになることもあると言うことです。この文脈で登場するアナニヤ、サッピラ夫妻のように(使徒5:1-5)、人々の関心、人々の評価を得ようとする見せかけの献金は福音進展にとって重大な妨げとなるし、神はそれを決して許容されない、ということを示しています。とかく神の家族の中で「多くの献金をする人は信仰共同体の中で重要な人物である」という誤った認識を持ってしまいやすいことへの警告です。

むしろピリビの教会に習うべきです。

 ピリピ1:4-62:25: 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。

 ピリピ4:10-14: 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

 ピリピ4:15-20: ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

1、主の宣教大命令に応え、福音進展への参加はすべての教会の基本の基本です。
つまり、教会を建て上げることに労する人々のため、人と資金を長期にわたって投資することも意味しています。これは目先の教勢拡大にあるのではなく、神の再創造の御業として神の家族、教会共同体の建て上げとその広がりにあります。その共同体は地域の繁栄に寄与・貢献する共同体です。

2、主にある投資は大きな喜びを与えます。
実際の奉仕の働き以上に、心から捧げる人に、投資する者に大きな喜びを与えてくれます。

3、直接従事者の豊かさと欠乏: 福音の進展に直接従事している人は豊かも、時には欠乏をも覚悟すべきであるということです。神の恵みに応え、福音のもたらす幸いをひとりでも多くの人に伝えたい、また、多くの助けを必要としている人々のために真心から愛の手を差し伸べることができる人生、福音に基づくクリスチャン人生を過ごせる器を一人でも多く建て上げるために献身する主の働き人は、時には物質的な乏しさをも覚悟の上、献身しています。

さらにコリント教会、テサロニケ教会の例をみてみましょう。

Ⅰコリント9:14: 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。

Ⅰテサロニケ2:9: 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

Ⅱテサロニケ3:8-9: 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。

1、指導者の覚悟: 必要とあれば、自分たちの必要を自ら満たすことも辞さない覚悟が求められています。そのためにクリスチャン人生建て上げにおいて、最初から持って生まれた能力、賜物を見出し、磨き上げておく必要があります。

2、生活能力を磨き、確保する:福音の働きに携わる人たちは、その働きで報酬を得られないときに備える必要がある、ということです。
 同時に、主にある兄弟姉妹は主の働き人に任の重さを理解すべきです。

3、伝道者、牧師の働きは、時には非常に重圧の大きい精神的・肉体的労働であることについて、しっかり捉えておきたいものです。

 教会の側から、主にある兄弟姉妹の立場から主の働き人を考える時、「牧師給をどうすか」という発想からではなく、その働き、任務からから考え、純粋に愛の支援という発想で働き人の必要、家族の必要を考え、それを具体化すべきであろうと思います。主の働き人はその真実な愛がわかれば金額を越えた感謝と信頼関係を築いていくものです。

まとめ:
① 種にあって、気前良くある: 富める者は、自分の豊かさを楽しみつつ、真の生き方を見失わないようにすべきです。(参照:Ⅰテモテ6:17-19

② 自分たちの財を分け合う: 神の家族共同体が、助けを必要としているときには使徒バルナバのように財を分け合う。

③ 自分に栄誉帰さない: 栄光は神に帰せよ。

④ 犠牲をいとわない: 教会を生み出す働き、運動は犠牲をいとわない満たしを必要としているゆえに、コリント教会の献金に倣いたい。

⑤ 小さな教会でもできる限り捧げよ: 教会を生み出す運動は、基金や人を送ることによって貢献することができる(参照:ピリピ教会の働き)

⑥ 働き人は献身し、諸教会から支えられるべきである: (参照:コリント9章)、
同時に、働き人は、喜んで自分の仕事に取り組み(天幕造り:この意味はアルバイトではなく、自らの技能)、教会の重荷、躓きにならないようにとり組む。各個教会の長老たちは、その働きのゆえに経済的なサポートによっても尊敬されるべき(参照:Ⅰテモテ5:17)。

⑦ 教会の発展は、財政と一体である: 私たちの犠牲的な献げ物なしに、教会の発展はありえない(参照:コリント8,9章)。


⑧ 「教会」とは何かを理解せよ: 神の目的のうちに計画された再創造に御業としての教会とはどのようなものか、「信仰による神の救いのご計画の実現」からそれを完全に理解するとき、私たちはその中で用いられ、「良いわざ」の必要に見合う者とされる。

2017年10月26日木曜日

地域に貢献する教会(3)

「お金」について

教会が神の家族内で助けを必要としている方々への援助はもちろんのこと、教会外、地域社会においても助けを必要としている方々へ愛の手を差し伸べ、地域の繁栄に貢献する存在について確認してきました。「貢献する」という視点から「お金」、また「富」について聖書の意図を理解しておきたいと思います。

「お金」に対するタブー: 私たちの文化の問題でもあるかもしれませんが「お金」について話題にすることに躊躇する傾向があります。ましてや教会ではなおのこと正面切って話すものではないようです。しかし、福音に基づく「良いわざ」としての地域貢献、しかも主の宣教大命令に直結する貢献を考える上で「お金」を切り離なして考えることはできません。むしろ主の働きが広がるためには利益を得ることのできる働きを積極的に考えるべきです。
  なぜ、躊躇してしまうのか、考えられることの一つとして長くカトリシズムの教会が歴史的に続いたがゆえに「禁欲」は広く宗教の本質であるかのように受け止められていると思われます。つまり人間の本能である「食欲」、「所有欲」、「性欲」の否定、禁欲です。しかし、人間の本能それ自体が罪ではなく本能を制御する考え方、価値観が間違っている場合があるのです。私たちは聖書に規範に基づいて本能を制御することで幸いを得るのです。
  今回の主題である「お金」の問題を考えるなら、一般的に「所有欲」の否定としての「清貧」は一つの理想的な徳として染みついているようです。それゆえに、現実的に必要不可決な「お金」についての話題そのものをタブー視(禁忌)してしまうのではないでしょうか。改めて共に考え、お金に対する間違った考え、ないし間違った教えについて話し合う必要があります。むしろ教会で聖書の意図に基づいた教育がなされなかったことについて、また誤解や間違った教えについて正される必要があるのではないでしょうか。教会が地域社会に貢献する存在であり、その「良いわざ」は主の宣教大命令に応えるものである、と言う視点から共に話し合って見ましょう。その上で以下の聖書箇所の意図を共に考えてみたいと思います。

 聖書の意図: 確かに聖書を読んでいくと「お金」については警告的教えが目につきます。一見すると否定的な教えと受け止めてしまいがちです。例えばイエス様の教え「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)と明言しています。ここだけを読むと二者択一、「神様」か、「お金」かと考えてしまい、結果的に「お金に」に対して否定的になります。すぐ前にイエス様は「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。」とあり、さらにその前後を読みますと、決して二者択一ではなく、優先順位を示していることがわかります。祝福の源である神様を第一にする、神の規範、価値観に基づいて富を管理することです。「お金」は目先の錯覚ではありますが、神に代わってしまうほどの万能感を持っています。その万能感に惑わされないために私たちは聖書の基本原則に基づいて建て上げられていなければならないのです。
 初代教会が誕生したとき、自然発生的に、かつ自主的に互いに支え合う共同体となっていることが読み取れます。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:44-47)とあります。さらに、「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」(使徒4:34-4:37)とあります。さらに読み進むとわかりますが「やもめ」のよう助けを必要としている方々が教会に加えられていたことがわかります。キリスト教会は決して共産主義的な私有財産を否定する共同体を目指していたのではなく、教会内外に貢献する神の家族としての聖書の意図を理解し、実践していたのです。つまり、持てる者は「すべてを捧げる」というのではなく余剰の富を、助けを必要としている人々のために豊かに用いたのです。時にはマケドニヤのクリスチャン達のように「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ」(Ⅱコリント8:2-3)ることもあります。
 十字架のイエス、復活のキリストに意図された「信仰による神の救いのご計画」を明確に解したパウロは教会内外に貢献する神の家族を明確に理解していました。
 「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(Ⅰテモテ 6:10)。神を第一とする優先順位が明確に確立していない中で金銭を愛する悲劇的な結末です。しかし、富を「お金」を否定しているわけではありません。続いて読んでいくと、
「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように」(Ⅰテモテ6:17-19)との勧めに注目して下さい。祝福の源である神に、永遠に残るもの、福音に基づく「良いわざ」のために富を用いることです。富める者の排除ではありません。
  つまり、「神か富か」ではなく、「お金」の万能感に惑わされず、永遠に残る価値あるもののために持てる富を豊かに用いることを明確に示しています。この聖書の意図をしっかり捉えているなら、貢献する教会を建て上げ、主の宣教大命令に応えていくために知恵深くに「お金」、「富」を豊かにしていく実際的な取り組を展開させていけるのではないでしょうか。

ヤコブ(ヤコブ51-5節)は「お金」の持つ万能感のゆがみについて警告しています。

聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
 誤解しないで下さい。「富の否定」ではありません。「お金」の持つ万能感にゆがめられて、価値のない富になっていることへの警告、また額に汗する労働に対する正当な対価を支払わずに得た不正な富への警告です。(続く)

2017年10月23日月曜日

地域に貢献する教会(2)

神の再創造の御業としての教会は信仰の共同体、神の家族だけに留まらず、地域共同体に貢献する存在であることについて共に考えました。

 イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
 家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために【主】に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。(エレミヤ29:4-7)

エレミヤの預言は異国の地に捕囚の民となった神の民がもう一度、律法の書を復唱し、神の意図を実現していくことを示しています。その異国の地に連れ去られた人々の中の一人、ダニエルはその典型的な存在として記されています。彼の生き方は神の民においても、異国の国においても神の前に寄与・貢献する生き方そのものでした。神の再創造の御業はキリストの完全な贖いの業に基づくわけですが、そのキリストの福音を理解することで旧約聖書の意図を明確に捉えた異邦人の使徒パウロは書簡の中でダニエルに示された神の意図を的確に捉え、再創造の御業である神の家族教会共同体の有り様に反映させています。

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。ローマ人への手紙13章1-3節

 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。--- ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。Ⅰテモテへの手紙2章1-2,8節

つまり、クリスチャンたち、神の家族教会共同体の存在はこの世に対して対決姿勢ではなく、「公民」として知恵を持って福音に基づく「良いわざ」に取り組みます。それは世に対して、地域社会に対して神の福音を飾ることになります。私たちはこの世に対して隠遁するのではなく、無関心の姿勢でもなく、ましてや衝突など、政治的な抵抗勢力になったりすることのないように取り組みます。むしろ対話を生み出すように取り組みます。その対話の機会が福音を、私たちの信仰について証しできる良い機会なのです。私たちキリスト者にとって迫害は避けられないものかもしれません。しかし、不必要な迫害を起こさせることのないように知恵をつくすことも神の家族に対する大切な務め、責務です。そのために私たちは聖書の基本原則に基づいて建て上げられている必要がありますし、対話の機会に的確に福音を語ることできるように備えている必要もあるのです。

 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。コロサイ人への手紙4:5-6節

 神の家族である教会が真の意味で、実質的に貢献できるために教会に与えられている資源、潜在的資源をも含めさらに豊かにし、教会内外において、とりわけ地域に貢献できるように共に建て上げられると同時に、さらに豊かな資源にしていく取り組みが欠かせません。中でも貢献する資源の一つ、富について健全な考えを持ち、豊かに用いられるように取り組たいものです。(続く)