2017年9月1日金曜日

鍵となる概念:聖書の「基本原則」

先回、C-BTEパラダイムは聖書の「基本原則」から、と紹介しました。問題は聖書の「基本原則」は聖書の意図なのかどうかです。現在はBILDから出版されている基本原則シリーズの翻訳テキストを用いています。翻訳ゆえの制約があることは承知の上ですが、聖書の「基本原則」は文化を越え、共有できるものです。なぜなら聖書は神の啓示の書、私たちにとって唯一絶対の規範であることを共有しているからです。問題はそれを理解して、どのように適用していくか、いかに実践的戦略を描き立てることができるか、それぞれの文化の中で考えなければなりません。

まず、「基本原則」そのものについて紹介したいと思います。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません」(コロサイ2:8)。

基本原則シリーズを学び始めていくときに、この聖句に出てくる「この世に属する幼稚な教え」の「幼稚な教え」こそ「基本原則」の根拠として説明されていることに戸惑いを覚えられる方は少なくありません。私もその一人でした。人によっては、否定的なこととして述べている「幼稚な教え」をクリスチャンが学ばなければならないなんておかしい、意味をなさないのでは、と言います。確かに私たちが持っている日本語聖書を読む限り、その疑問は当然と思われます。まもなく出版される新改訳聖書の改訂版に期待を込めています。もう少し丁寧に文脈から考えると、ここで言わんとしていることは、基本となる教えが異なっていれば、つまりこの世の基本原則、キリストの教えに基づくものでなければ、結果的にキリストにある成熟、すなわち「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4:13)ことはできない、と言っていることにお気づきになると思います。

それでも「幼稚な」という日本語の響きは基本、初歩、根本というよりも、どちらかといえば否定的、揶揄的な語感があります。これは残念ながら日本語聖書の不適切な訳語によると思われます。それは、パウロ書簡の聖書神学から見出だされる概念の一つにキリストの「基本原則」があることに気づいていないからではないかと思います。そういう意味では聖書解釈の問題でもあります。ただし、ガラテヤ人への手紙4章に繰り返されている「幼稚な教え」についての別訳が脚注に記されており、そこでは「原理」つまり「原則」の意である用語も記しています。

「幼稚な」と訳されているギリシャ語のストイケイオンは宇宙万物の基本物質、構成要素、基本とか初歩、また天体という意味をも持つ言葉です。新欽定訳聖書(NKJV)では「この世の基本原則」と訳しています。そうであれば「基本原則」そのものに価値判断は不要です。問題は何に基づく「基本原則」なのか、その「何」の部分が重要になります。私たちはキリストご自身が備えて下さった福音、そしてその福音に基づく教え、すなわち「信仰による神の救いのご計画の実現」(Ⅰテモテ1:4b)するものとなります。

さらにヘブル人への手紙5:12に「 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。」ここに述べられている「神のことばの初歩」の「初歩」は先ほどの「基本原則」、新改訳で「幼稚な教え」と訳している「幼稚」のことです。この「初歩の教え」、つまりこの世の初歩の教えではなく、「キリストの初歩の教え」、つまり「基本原則」をしっかり学びとっていないと、クリスチャンが成熟に至ることはないと言うわけです。「初歩の教え」という日本語の響きも、できればその教えを後にしてしっかりした教えに学びなさいと言っているように響きます。これも残念ながら「基本原則」の概念を解していないことによるものと思われます。もっともヘブル書の文脈では「もう一度誰かに教えてもらう必要がある」と言っていますので「初歩の教え」の否定、つまり「基本原則」の否定ではないことが分かります。さらに「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教え(基本原則)をあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」(6:1)と勧めています。「基本原則」は一クリスチャンに留まらず、地区教会の建て上げにも影響していきます。
 
非常に遠回りのようですが、神が意図された再創造の御業であるクリスチャンライフを確立し、地区教会が建て上げられ、世界的規模で宣教の役割を果たすために、まずキリストの「基本原則」にしっかりと根ざしたクリスチャンを建て上げていなければならない、と言うことです。

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